話題まとめ
; クラス適性
: 作中では「ライダー」のクラスで召喚されているが、近代的企業の先駆けである、海上運輸会社と民間軍事企業の両面を兼ね備えた「海援隊」の設立者として有名。
: ちなみに「海援隊」の前身である「亀山社中」時代には第二次長州征伐で海戦も経験している。また日露戦争二日前明治37年2月6日、皇后美子(後の昭憲皇太后)の夢枕に龍馬が立ち、海軍軍人の守護を誓ったという。
: 直接海戦に関わった逸話は少ないものの、船に関わる逸話は多いので「[[ライダー]]」のクラスでもおかしくなく、先の夢枕の伝承が付加されるかもしれない。
: 史実における龍馬は二挺の銃を愛用しており、一つ目は「S&Wモデル2アーミー」の 33口径6連発であり、これは高杉晋作から贈られたもので、寺田屋事件で襲撃を受けた際にこの銃を使ったという。
: しかし斬り合いの混乱でこの銃は紛失し、後に買い求めたのが「S&Wモデル1/2」の 32口径5連発。これは妻である楢崎龍と共に1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。拳銃で遠距離狙撃を行うのは相当な技量を必要とされるため、銃の扱いはかなり練達していたらしく「[[アーチャー]]」クラスの適性もあるものと思われる。
: 黒船来航以降、各藩の動向を探っていた土佐藩の意向で各地で情報収集を行っていた云わばスパイの一人であった時期もあるため「[[アサシン]]」クラスの適性もあるかもしれない。
: ただ、この銃は近江屋事件の時も携帯していたが、発砲する暇もなく龍馬は殺害されている。
: 「北辰一刀流免許皆伝」を持っているが、実は北辰一刀流には剣術と共に薙刀術もある。龍馬はむしろ後者の方に秀でており、免許皆伝も薙刀の方に与えられたものであった…いう説が有力となっている。その場合、「[[ランサー]]」クラスの適性がある事になる。
: なお明治43年8月に書かれた遺品目録には「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」が確認できるが、昭和4年の遺品目録には「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と書かれており、剣術の皆伝書は大正2年に釧路で起きた火災で陸奥守吉行と共に被災し焼失したと見られる。長刀(薙刀)の皆伝書は現存する。
; 知名度
: 坂本龍馬の知名度は幾度かの龍馬ブームによって一般大衆の認識と忘却を繰り返している。
: 維新後、明治16年に坂崎紫瀾が執筆した「汗血千里の駒」によって一つ目のブームが起こる。
: 明治23年に勝海舟がまとめた「追賛一話」によると龍馬が行った事業は広く世に知られているという記述がある。そのことから明治23年には坂本龍馬はすでに有名であったことが分かる。
: 次のブームは上述されている日露戦争の直前に皇后美子(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ち日本の勝利を告げた事がきっかけである。この件から坂本龍馬は海軍の神様としても有名となった。
: その次は大正デモクラシーの時である。龍馬が考案した船中八策の第2条目がデモクラシーの先駆けと考えられたからである。このことが龍馬を平和的革命者であるというイメージを定着させたのだ。
: 昭和3年に桂浜で龍馬の銅像が建立された際には、その除幕式に陸海軍の兵士が参列し、沖には駆逐艦が碇泊した。この銅像は第二次世界大戦中に県下の銅像の殆どが供出された際にも、天皇陛下のために働いた人物であるからと供出はされなかった。
: 戦後は司馬遼太郎の「龍馬がゆく」がベストセラーになったことがきっかけで再度有名となり、現代の龍馬像に大きく影響を与えた。
; 遺された謎
: 龍馬の死因は「暗殺」で、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町近江屋で中岡慎太郎を迎えていた際に、押し入ってきた何者かに斬殺されている。当初は新選組の関与が強く疑われ、新選組に所属していた大石鍬次郎が捕縛された際に龍馬暗殺を自白するが、後に撤回している。海援隊隊士たちは紀州藩による「いろは丸事件」の報復を疑い、両者の間で事件が起きている。
: 箱館戦争で捕虜になった元見廻組の今井信郎の与頭・佐々木只三郎とその部下6人が坂本龍馬を殺害したとされ、佐々木の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、京都守護職・松平容保(会津藩主)の命で佐々木に実行させたことが通説となっている。他にも、新選組犯行説、薩摩藩陰謀説、紀州藩士報復説、外国陰謀説まで様々な異説が生まれ、未だ議論が続いている。