真名:武則天
:ぶそくてん。中国史上唯一の女帝。またの名を「則天武后」。本名は武照。
:「武則天」は通りの良さを優先して名乗っているが、死後の諡「則天大聖皇后」に基づくもの。
:彼女自身としては、初めて帝位についた際の「聖神皇帝」の肩書がお気に入り。
:始めは唐の二代皇帝太宗の後宮、妾の一人であったが、太宗の息子高宗と通じ、太宗の死後高宗の妾にもなる。
:そして武氏は高宗の子を産むが、その小さな命の火はほんの乳飲み子のうちに消えた。
:武氏はその子を殺した犯人として王皇后を追求し、寵姫・蕭氏とともに失脚させ、自らが高宗の皇后の座に付いたと言われている。
:その際、武氏は二人の手足を切り取った上で「骨まで酔わせてやる」と酒壺に投げ込むという刑により処刑したという。
:この流れから、武氏が自ら子を殺して皇后に罪をなすりつけたのではないかと考える者もいたが、真実は定かではない。
:皇后として実権を握った彼女は、邪魔な親族・政敵を次々と殺害(暗殺)。
:高宗の死後、国号を「周」と変え、ついに自ら帝位につき「聖神皇帝」を名乗ることになる。
:彼女は国を治めるにあたり、密告を奨励する恐怖政治を敷いた。「酷吏」と呼ばれる役人達による残虐な拷問を、民草は心から恐れたという。
:彼女は生まれによって女帝になった人間ではない。ただの役人の娘であったが、父が死んで引き取られた親戚共々憂さ晴らしに虐げられる日々を送っていた。
:そんな彼女が女帝になったのは学問を、武芸を、女の技を、自分にとって不要な他の全てを捨てて磨いた事に他ならない。
:単にそう願い、そう決意し、そう努力してその地位にまで上り詰めたのである。
:自分はなるべくして女帝になった。絶対になるのだから、なって当然。その為に努力し続けてきたのだから、なって当然。
:後宮に入り、大人になり、権力を手に入れてからの血塗られた道筋は、言わば消化試合のようなものだった。
:女帝になる為に真に必要としたのは「ただ最初の決意」のみ。
:虐げられた子供時代に、天を見上げて誓った。
:「この国を必ず手に入れてやる」という、無雑なる決意。
:「この国を正しく導いてやる」という、崇高なる決意。
:彼女は「その瞬間」こそが「自らの生の全盛期」であると考えている。
:肩書きではなく、在り方の話として―――
:「いつから女帝なのか」と問われれば「その瞬間」が答えだからだ。
:「なぜ女帝になれたか」と問われれば「その瞬間」が答えだからだ。
:「人生で最も輝いていたのがいつか」と問われれば「その瞬間」が答えだからだ。
:故にこそ、彼女はこの「年若い少女の姿」で現界しているのである。
関連
;告密羅織経
:彼女の統治時代に記されたと言われる、酷吏(拷問官)達の指導書。言わば罪人を作り上げるための、拷問と尋問のハウツー本であった。
;酷吏(こくり)
:法を威にかざして、民衆を苦しめた悪徳役人への蔑称。元々の語源は司馬遷の『史記』の『酷吏列伝』から取られたもので、時代が下るにつれて冤罪の捏造や拷問係といった「汚れ仕事」を行う役人を指すようになった。ちなみに役目を終えた酷吏を武則天自身が一掃している。
;科挙
:中国で隋代から始まり、清の時代まで続いていた役人登用試験。
:それまでも下級役人の採用試験として存在していたが、武則天はこれを本格化させ、貴族への対抗勢力となる上級官僚を登用するための試験として最大限に活用した。いわば中国を貴族制から科挙制へと移行させた存在として、武則天の名は史実にも刻まれている。
:試験の難易度は苛烈を極め、受験者には十年以上試験を受け続ける者や精神を病む者も続出したとか<ref group="注">楊貴妃の幕間の物語で展開されていた「科挙を首席で合格しないと出られない部屋」は文字通りの拷問か終身刑そのものである。まして三元(三次試験まですべて満点。麻雀の大三元の語源でもある)まで達成ともなれば、それだけで英霊になれてもおかしくはない。事実、千年以上続く科挙の歴史の中でも三元達成者は'''十数人しかいない。'''</ref>。
;中国三大悪女
:武則天と呂雉(漢の高祖帝の妻)、西太后、妲己の内の3人を指す他、最近は江青(毛沢東の妻)を加えた四大悪女とする事もある。