差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
318行目:
318行目:
− +
→話題まとめ
;妖刀村正
;妖刀村正
:村正は、徳川家に仇をなす「妖刀」として広く知られている。その理由は徳川家康の祖父、父、長男を村正製の刀で殺害されており、家康自身も関ヶ原の戦いで村正製の槍に傷つけられたからである。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。
:村正は、徳川家に仇をなす「妖刀」として広く知られている。その理由は徳川家康の祖父、父、長男を村正製の刀で殺害されており、家康自身も関ヶ原の戦いで村正製の槍に傷つけられたからである。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。
:しかし村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方に多くの一派が存在する。そして村正一派の刀剣を所持する徳川家臣もまた多かった<ref group="注">例えば、徳川配下の猛将として知られる本多平八郎忠勝の所持する槍「蜻蛉切」も村正一派の作である。</ref>ので、これはいわゆる『母数が増えたがゆえに不祥事も目についた』類の事柄にすぎない。
:しかし村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方に多くの一派が存在する。そして村正一派の刀剣を所持する徳川家臣もまた多かった<ref group="注">例えば、徳川配下の猛将として知られる本多平八郎忠勝の所持する槍「蜻蛉切」も村正一派の作である。</ref>ので、これはいわゆる『総数が増えたがゆえに不祥事も目についた』類の事柄にすぎない。
:実際、'''上述した家康が村正を嫌ったという説は後世の創作'''であり、名古屋の徳川美術館には家康の形見とされる村正作の刀が収蔵されている。一方で反徳川を標榜する人々にとっても村正は徳川打倒のシンボルになっており、幕末には多数の倒幕派の剣士が愛用したと言われる(もっとも偽物も多数出回ったが)。
:実際、'''上述した家康が村正を嫌ったという説は後世の創作'''であり、名古屋の徳川美術館には家康の形見とされる村正作の刀が収蔵されている。一方で反徳川を標榜する人々にとっても村正は徳川打倒のシンボルになっており、幕末には多数の倒幕派の剣士が愛用したと言われる(もっとも偽物も多数出回ったが)。
:幕末以降、日本では村正伝説は半ば廃れるが、アメリカで開発されたコンピューターRPG「ウィザードリィ」のヒットで1980年代後半に復活する事になる。このゲームでは村正は最強の武器として設定されているが発見率が極めて低い激レアアイテムで、ラスボスそっちのけで村正を求めて最下層を探索するプレイヤーが続出。その後、村正=最強の刀という誤解が独り歩きするようになる(優れた刀であるのは間違いないが)。
:幕末以降、日本では村正伝説は半ば廃れるが、アメリカで開発されたコンピューターRPG「ウィザードリィ」のヒットで1980年代後半に復活する事になる。このゲームでは村正は最強の武器として設定されているが発見率が極めて低い激レアアイテムで、ラスボスそっちのけで村正を求めて最下層を探索するプレイヤーが続出。その後、村正=最強の刀という誤解が独り歩きするようになる(優れた刀であるのは間違いないが)。