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→話題まとめ
:その根拠として、当の『紫式部日記』が大体西暦1008年秋から1010年正月頃のことを記述しているのだが、清少納言は1000年頃には主である中宮定子の逝去とともに宮廷を去ったとされており、これが正確ならば'''二人にはそもそも一面識もない'''。また、『枕草子』の方には紫式部に関する記述が全くない事も、この説を補強している。
:その根拠として、当の『紫式部日記』が大体西暦1008年秋から1010年正月頃のことを記述しているのだが、清少納言は1000年頃には主である中宮定子の逝去とともに宮廷を去ったとされており、これが正確ならば'''二人にはそもそも一面識もない'''。また、『枕草子』の方には紫式部に関する記述が全くない事も、この説を補強している。
:ただ、清少納言の主人である中宮定子と、紫式部の主人である中宮彰子は政治的な対立関係にあり、清少納言の著した『枕草子』が中宮彰子(ひいては彼女の父である藤原道長)とそれに連なる人々にとって'''目障り極まりない'''ものであったことは想像に難くない。そのため、面識がなくとも紫式部が清少納言を嫌っているのは、「(実際に付き合った上での)個人的な感情」というより「政治的な立場の違い」である可能性が高いと思われる。
:ただ、清少納言の主人である中宮定子と、紫式部の主人である中宮彰子は政治的な対立関係にあり、清少納言の著した『枕草子』が中宮彰子(ひいては彼女の父である藤原道長)とそれに連なる人々にとって'''目障り極まりない'''ものであったことは想像に難くない。そのため、面識がなくとも紫式部が清少納言を嫌っているのは、「(実際に付き合った上での)個人的な感情」というより「政治的な立場の違い」である可能性が高いと思われる。
::なお定子と彰子は従姉妹であるが、当時は(親子関係を除いて)身内と言えど政敵なのは当然であり、親戚だから親しいなどと言う事は特にない。と言うか、藤原氏が要職を占めていた関係上、むしろ'''身内こそが最大の政敵'''と言う事も多かった。実際、定子の父である道隆は早世してしまったが、その嫡子=定子の兄である伊周と彰子の父である道長は熾烈な政争を繰り広げている。
::なお定子と彰子は従姉妹であるが、当時は(親子関係を除いて)身内と言えど政敵なのは当然であり、親戚だから親しいなどと言う事は特にない(もちろん「個人的に親しい・近しい親戚」は存在し得るが)。と言うか、藤原氏が要職を占めていた関係上、むしろ'''身内こそが最大の政敵'''と言う事も多かった。実際、定子の父である道隆は早世してしまったが、その嫡子=定子の兄である伊周と彰子の父である道長は熾烈な政争を繰り広げている。
:恐らくは作中でもこれと同様か近い解釈がされているようで、[[ロクジョウ|紫式部のイメージしていた清少納言]]と[[清少納言|実際の彼女]]は'''見事なくらい正反対の性格'''だった。期間限定イベント『いみじかりしバレンタイン』では政治的対立についてわずかに語られ、また『地獄界曼荼羅 平安京』でも、1008年当時の二人には面識がなかった事が語られている。
:恐らくは作中でもこれと同様か近い解釈がされているようで、[[ロクジョウ|紫式部のイメージしていた清少納言]]と[[清少納言|実際の彼女]]は'''見事なくらい正反対の性格'''だった。期間限定イベント『いみじかりしバレンタイン』では政治的対立についてわずかに語られ、また『地獄界曼荼羅 平安京』でも、1008年当時の二人には面識がなかった事が語られている。
;泰山解説祭の応用
;泰山解説祭の応用