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− 寛永十四年(1637年)、キリシタン宗徒による反乱の報せが届いてすぐの頃、宗矩は追討使の任を受けた板倉内膳正重昌を必死に引き留めようとした。何故と問い掛けた将軍家光に、宗矩は「宗教徒のいくさはすべて大事」「重昌殿は討ち死にするでしょう」と答えたという。+
→真名:柳生但馬守宗矩
先読みに長け、島原の乱の拡大をいち早く見抜いていたとも語られる。<br>
先読みに長け、島原の乱の拡大をいち早く見抜いていたとも語られる。<br>
寛永十四年(1637年)、[[天草四郎時貞|キリシタン宗徒による反乱の報せ]]が届いてすぐの頃、宗矩は追討使の任を受けた板倉内膳正重昌を必死に引き留めようとした。何故と問い掛けた将軍家光に、宗矩は「宗教徒のいくさはすべて大事」「重昌殿は討ち死にするでしょう」と答えたという。
事態は宗矩の読み通りに推移した。一万五千石の大名である重昌では、西国大名を率いるのに不足であり、結果として苦戦を強いられたのである。状況を重く見た将軍家光は重臣・松平信綱を総大将として送り込んだが、重昌はそれを知って焦り、信綱が到着するよりも前にと敵陣へ突撃し、あえなく討ち死にを遂げたのだった。
事態は宗矩の読み通りに推移した。一万五千石の大名である重昌では、西国大名を率いるのに不足であり、結果として苦戦を強いられたのである。状況を重く見た将軍家光は重臣・松平信綱を総大将として送り込んだが、重昌はそれを知って焦り、信綱が到着するよりも前にと敵陣へ突撃し、あえなく討ち死にを遂げたのだった。