差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
310行目:
310行目:
− +
− +
→話題まとめ
:『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こうした暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。
:『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こうした暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。
:幕府の政策によって他藩が幕府の許可が下りない内は軍を出動させられなかった事などが追い風となり、当初は一揆軍側が優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくると次第に追い詰められていき、最終的に島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。
:幕府の政策によって他藩が幕府の許可が下りない内は軍を出動させられなかった事などが追い風となり、当初は一揆軍側が優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくると次第に追い詰められていき、最終的に島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。
:幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで原城を攻めようとするも、総大将に任じられた板倉重昌には討伐軍を統率するだけの力量が無く、ひたすら総攻撃を続けるも攻城は全て失敗。遂には重昌も戦死するという最悪の結果を迎える<ref>これは信綱の援軍派遣決定を受けて責任を取らされる事を恐れた重昌が功を焦り、自ら最前線に出て指揮を執りながら総攻撃を仕掛けたため。家光の側近であった[[柳生但馬守宗矩]]はこの結果を予期し、重昌の派遣を撤回するよう諌言したという</ref>。
:幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで原城を攻めようとする。だが総大将に任じられた板倉重昌は九州大名たちを率いるに値する者ではなく、ひたすら総攻撃を続けるも攻城は全て失敗。事態を重く見た幕府は「知恵伊豆」の異名を持つ老中・松平信綱を派遣するも、それから間もなく重昌が戦死するという最悪の結果を迎える。<ref>信綱の援軍派遣決定を受けて責任を取らされる事を恐れた重昌が功を焦り、総攻撃にあたって自ら最前線に出たところを討ち取られた。家光の側近であった[[柳生但馬守宗矩]]はこの顛末を予期し、重昌の派遣を撤回するよう諌言したという。</ref>
:事態を重く見た幕府は「知恵伊豆」の異名を持つ老中・松平信綱を総大将として派遣。援軍を得た討伐軍は12万を数えるも、信綱は緩急を付けた戦い方を心掛けて無理な攻撃を控えるようになり、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると兵糧攻めにして一揆軍の弱体化を計った。<br>篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日(旧暦)、遂に総攻撃を開始、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。
:あわや瓦解寸前のところで援軍を得た討伐軍は12万を数えるも、信綱は緩急を付けた戦い方を心掛けて無理な攻撃を控えるようになり、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると兵糧攻めを仕掛けて一揆軍の弱体化を計った。<br>篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日(旧暦)、遂に総攻撃を再開、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。
:*なお、立て篭もった3万7千人全員が討ち取られたとされているが、最近の史料では1万人ほどが投降・脱出するなどして命を失わなかったと言われている。
:*なお、立て篭もった3万7千人全員が討ち取られたとされているが、最近の史料では1万人ほどが投降・脱出するなどして命を失わなかったと言われている。
:そして乱の鎮圧後、松倉勝家は暴政によって騒乱を招いた責任を問われて改易されたばかりか、江戸に罪人として送られ1638年8月(旧暦)斬首刑となった。''大名が切腹ではなく斬首となったのは後にも先にもこの時だけ''であり、さすがの幕府も勝家の目に余る暴政は看過できなかった事が伺える。
:そして乱の鎮圧後、松倉勝家は暴政によって騒乱を招いた責任を問われて改易されたばかりか、江戸に罪人として送られ1638年8月(旧暦)斬首刑となった。''大名が切腹ではなく斬首となったのは後にも先にもこの時だけ''であり、さすがの幕府も勝家の目に余る暴政は看過できなかった事が伺える。