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120 バイト追加 、 2020年2月5日 (水) 05:28
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**彭城の戦いでは楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は敗走中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」や日本戦国時代の「桶狭間の戦い」と共に、寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
 
**彭城の戦いでは楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は敗走中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」や日本戦国時代の「桶狭間の戦い」と共に、寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
 
*異聞帯では理知的となっているが、史実の項羽は非常に短絡的な性格の持ち主で、それに伴う数々の失敗で劉邦に敗北する。
 
*異聞帯では理知的となっているが、史実の項羽は非常に短絡的な性格の持ち主で、それに伴う数々の失敗で劉邦に敗北する。
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。しかし一方で、史記において項羽を王者として扱っており、その行跡に関する描写も豊かである<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。</ref>。「史記」は司馬遷が亡父の遺志を継ぎ、個人として編んだ史書であるため、劉邦(漢王朝の創始者)と敵対した項羽に対しても、好意的とさえいえる視点で書かれている(無論欠点についても項羽・劉邦ともにしっかりと書かれている)。
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**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。しかし一方で、史記において項羽を王者として扱っており、その行跡に関する描写も豊かである<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。ちなみに、劉邦の正室で中国三大悪女の一人とされた呂雉も「本紀」に記載されている。</ref>。「史記」は司馬遷が亡父の遺志を継ぎ、個人として編んだ史書であるため、劉邦(漢王朝の創始者)と敵対した項羽に対しても、好意的とさえいえる視点で書かれている(無論欠点についても項羽・劉邦ともにしっかりと書かれている)。
 
**項羽と劉邦の双方に仕え重用された陳平は、劉邦の人柄を「傲慢で無礼」としている一方で項羽の人柄を「恭敬で人を愛する」と評している。なので「理知的で礼儀正しい項羽」というのは、史実からそう外れたキャラ付けではない。
 
**項羽と劉邦の双方に仕え重用された陳平は、劉邦の人柄を「傲慢で無礼」としている一方で項羽の人柄を「恭敬で人を愛する」と評している。なので「理知的で礼儀正しい項羽」というのは、史実からそう外れたキャラ付けではない。
 
**ただし上記の評価はその後に「褒美を出し惜しむので人が従わない」「人を信じることができず、愛し任せるのは一族か妻の親族だけである」と続き、劉邦のほうは「褒美をよく出すので利を好む連中が集ってくる」と続く。項羽がケチであることは、同時代の人物の多くが証言しており、秦末から楚漢戦争に突入していく切っ掛けの一つにもなった。一個人としてどちらの人格が優れていたかはともかく、君主として劉邦が項羽に勝っていたのは間違いないだろう。
 
**ただし上記の評価はその後に「褒美を出し惜しむので人が従わない」「人を信じることができず、愛し任せるのは一族か妻の親族だけである」と続き、劉邦のほうは「褒美をよく出すので利を好む連中が集ってくる」と続く。項羽がケチであることは、同時代の人物の多くが証言しており、秦末から楚漢戦争に突入していく切っ掛けの一つにもなった。一個人としてどちらの人格が優れていたかはともかく、君主として劉邦が項羽に勝っていたのは間違いないだろう。
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