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987 バイト追加 、 2020年9月17日 (木) 06:13
→‎メモ: 韓信以外に粛清された功臣について、冒頓単于について、韓王信について加筆しました
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**つまり韓信の粛清は半ば計画されていたもので、決して劉邦が疑心暗鬼で罪のない家臣を不当に殺したわけではない。フォローすると最初の捕縛で劉邦は、韓信を処刑することはなく淮陰侯への降格で留めており、韓信の処刑は劉邦に断りなく独断で行われた。なのであくまで可能性であるが、劉邦は韓信を警戒していても殺す気まではなかったかもしれない。しかし、韓信は戦後の冷遇の不満から反乱を決意し、陳豨に反乱を唆して劉邦が親征した際に首都長安を制圧する計画を企てたが、計画は事前に発覚し、蕭何と呂雉によって処刑された。歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「'''蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ'''」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?と反論)したため、助命された。
 
**つまり韓信の粛清は半ば計画されていたもので、決して劉邦が疑心暗鬼で罪のない家臣を不当に殺したわけではない。フォローすると最初の捕縛で劉邦は、韓信を処刑することはなく淮陰侯への降格で留めており、韓信の処刑は劉邦に断りなく独断で行われた。なのであくまで可能性であるが、劉邦は韓信を警戒していても殺す気まではなかったかもしれない。しかし、韓信は戦後の冷遇の不満から反乱を決意し、陳豨に反乱を唆して劉邦が親征した際に首都長安を制圧する計画を企てたが、計画は事前に発覚し、蕭何と呂雉によって処刑された。歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「'''蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ'''」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?と反論)したため、助命された。
 
**仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。
 
**仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。
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**とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われた。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。
 
*彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
 
*彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
 
**しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろ[[セミラミス]]との関わりが深い可能性すらある。
 
**しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろ[[セミラミス]]との関わりが深い可能性すらある。
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*韓信が冷遇されている間、劉邦は北方の騎馬民族匈奴を率いて攻めてきた「冒頓単于」と戦ったが、大敗して毎年貢物を送る条約を結ばされた。歴史マニアの間では、もし韓信が用いられ続けられ冒頓単于と戦っていたら…というifはよく語られる。
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*劉邦軍には別に「韓信」がいた。流石にややこしかったのか、そちらは主に「韓王信」と呼ばれていた。なお韓王信は後に匈奴へと寝返っている。
    
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==

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