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270 バイト追加 、 2020年10月19日 (月) 19:48
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**歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「'''蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ'''」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、「'''乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?'''」と反論)したため、劉邦もその言葉の正しさを認めて、助命した。
 
**歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「'''蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ'''」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、「'''乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?'''」と反論)したため、劉邦もその言葉の正しさを認めて、助命した。
 
**仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。
 
**仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。
**とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われた。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。
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**とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われ、終いには義兄弟であり、項羽に命を狙われた「鴻門の会」の際に身を持って劉邦を庇い救い出した樊噲(はんかい)ですら謀反を疑われて捕らえられた(こちらは劉邦が処置を決断する前に病死した)。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。
 
*彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
 
*彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
 
**しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろ[[セミラミス]]との関わりが深い可能性すらある。
 
**しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろ[[セミラミス]]との関わりが深い可能性すらある。
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