「韓信」の版間の差分
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(→メモ: 韓信以外に粛清された功臣について、冒頓単于について、韓王信について加筆しました) |
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*「狡兎死して良狗烹られる」という言葉や、項羽からの天下三分の誘いを拒否したことなどから、劉邦の疑心暗鬼による粛清の被害者としてよくあげられるが、実情はまるで異なる。韓信は楚漢戦争中から、劉邦の足元を見て王位を強請る、劉邦の援軍要請を無視(このせいで劉邦は項羽に敗北した)など、たびたび問題行動を起こしていた。そもそも韓信が最初に劉邦に捕縛されることになったのも、指名手配されている'''楚の将軍「鍾離昩」'''を勝手に匿ったことが切っ掛けである。 | *「狡兎死して良狗烹られる」という言葉や、項羽からの天下三分の誘いを拒否したことなどから、劉邦の疑心暗鬼による粛清の被害者としてよくあげられるが、実情はまるで異なる。韓信は楚漢戦争中から、劉邦の足元を見て王位を強請る、劉邦の援軍要請を無視(このせいで劉邦は項羽に敗北した)など、たびたび問題行動を起こしていた。そもそも韓信が最初に劉邦に捕縛されることになったのも、指名手配されている'''楚の将軍「鍾離昩」'''を勝手に匿ったことが切っ掛けである。 | ||
**秦末~楚漢戦争の時代には軍を預けた将が、攻め取った地で勝手に王を名乗り独立するという事例が多発しており、韓信の振る舞いは劉邦からすれば謀反人予備軍も同然のことである。ために劉邦は楚漢戦争中から、韓信から将である印綬と兵を奪ったり、韓信の攻め取った斉から、故郷への栄転の名目で領地の少ない楚王へ移すなど、韓信の力を削ぐことに注力していた。 | **秦末~楚漢戦争の時代には軍を預けた将が、攻め取った地で勝手に王を名乗り独立するという事例が多発しており、韓信の振る舞いは劉邦からすれば謀反人予備軍も同然のことである。ために劉邦は楚漢戦争中から、韓信から将である印綬と兵を奪ったり、韓信の攻め取った斉から、故郷への栄転の名目で領地の少ない楚王へ移すなど、韓信の力を削ぐことに注力していた。 | ||
− | ** | + | **つまり韓信の粛清は半ば計画されていたもので、決して劉邦が疑心暗鬼で罪のない家臣を不当に殺したわけではない。フォローすると最初の捕縛で劉邦は、韓信を処刑することはなく淮陰侯への降格で留めており、韓信の処刑は劉邦に断りなく独断で行われた。なのであくまで可能性であるが、劉邦は韓信を警戒していても殺す気まではなかったかもしれない。しかし、韓信は戦後の冷遇の不満から反乱を決意し、陳豨に反乱を唆して劉邦が親征した際に首都長安を制圧する計画を企てたが、計画は事前に発し、蕭何と呂雉によって処刑された。 |
+ | **この時、蕭何は韓信を確実に処刑するために「陳豨の反乱もすぐに鎮圧された」との嘘の情報を流して、自身の計画が露見した可能性を疑って警戒する韓信に「病身であることは知っている。御身に疑いを晴らすためにも、祝辞を述べに参内した方が良いだろう」と呼び出して油断を誘っている。韓信も警戒を怠ってはいなかったのだが、蕭何は韓信が劉邦に仕える際に韓信の良くない噂を知って登用を渋る劉邦を幾度となく説得して大将軍に取り立ててくれた経緯があり、韓信にとっては「'''立身出世のきっかけにもなった大恩ある人物'''」だった。そんな蕭何を韓信はこの時も信頼していたため、呆気なく捕まってしまった。 | ||
+ | **歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「'''蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ'''」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、「'''乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?'''」と反論)したため、劉邦もその言葉の正しさを認めて、助命した。 | ||
**仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。 | **仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。 | ||
**とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われた。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。 | **とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われた。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。 |
2020年10月19日 (月) 19:38時点における版
韓信 | |
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読み | かんしん |
性別 | 男性 |
デザイン | サテー[出 1] |
初登場作品 | Fate/Grand Order |
概要
『Fate/Grand Order』に登場するキャラクター。
- 略歴
- 『人智統合真国 シン』にて、カルデアに対抗する為に始皇帝の命令で衛士長によって凍眠英雄から秦良玉ともども選ばれ、目覚めさせられる。
- 以降は軍師として戦略や技術解析について進言し、汎人類史について理解を深めてゆく。
- 終盤になって衛士長ともども暇を出され[注 1]、このままでは治まりがつかない血気盛んな連中を集めてカルデア相手に戦いを吹っかけ、大暴れする。
- 戦いの中で衛士長は倒れ、自身も瀕死の重傷を負う中相棒を看取りつつそのまま消えていった。
- 人物
- 肥満体型で視線が怪しく、初登場時には吃音気味という絵に描いたような「根暗なオタク」といった風貌をしている。
- 実際に内面も気持ち悪く、最新技術について教えられた途端異常に興奮し、沸き上がる軍略の波のあまり主君である始皇帝や女性である秦良玉の前で絶頂するという衝撃的な行動を見せた。
- ただ、これらの側面に隠された本心の部分は、異様に淀んだ目をしながら殺し合いの楽しさを語り、無意味な勝負に興奮するという筋金入りの戦争狂。
- どう考えても平和な世界では生きて行けない危険人物であるが自身にもその自覚はあるようで、適切な運用をしていた始皇帝には非常に強い忠誠を捧げており、上記の吃音もその為に本心を押し隠している故と思われる。
- 能力
- 長年始皇帝の下で軍師として辣腕を振るってきただけの事はあり、軍略の才能は特筆もの。
- インド、ローマ、エジプト、アステカと大戦争の際には決まって駆り出され、その全てを滅ぼしてきたという超人っぷりである。
- 本編でも800年ぶりに解凍されたにも関わらず現代の技術にすぐに追いついて献策したり、異聞帯の異常な状況下での最優先事項を進言したり、シャドウボーダーの解析でも中国異聞帯では未知の概念である「通信機の小型化」にいち早く気づくなどその片鱗が見て取れる。
- 最後の大暴れの際も、襲ってきたのはそれまで蹴散らしてきた兵と同じだったはずなのに、韓信の指揮が加わっただけでモードレッドが「名将ってヤツの恐ろしさを思い知らされる」と戦慄し、陳宮さえも「こと戦術指揮に限ってはあの諸葛孔明すら上回るのでは?」と分析するほどの能力を見せつけた。
登場作品と役柄
Fateシリーズ
- Fate/Grand Order
- 『人智統合真国 シン』で現地の凍眠英雄として登場。
人間関係
Fate/Grand Order
- 始皇帝
- 中国異聞帯における主君。彼が生身の肉体を持っていた頃からの関係。
- 「戦争時のみ解凍して戦わせ、平時は冷凍しておく」という扱いでお互いにとって最良の運用をしてくれたことで深く感謝しており、対面している際には畏まって吃音気味になるほど。
- 衛士長
- 中国異聞帯における同僚。
- 目覚めされられてからの短い間の付き合いではあるが、基本的に意気投合しており、始皇帝の元を辞した後は一緒に大暴れして最期を看取った。
生前(史実)
- 項羽
- 旧主。当初は彼の叔父・項梁に一兵卒として仕えていたが、彼の代には郎中(主君の護衛)に出世した。たびたび献策したが一度も採用されることがなかったため、脱走し劉邦に仕えた。
- 劉邦
- 才能を認めて、元帥の称号を与えてくれた主君。しかし、皇帝に即位後は冷遇されたので反乱を企てるも失敗する。
- 蕭何
- 自身を国士無双と呼んで劉邦に推挙してくれた恩人。一方で反乱の企てを阻止したのも彼であった。
- 呂雉
- 劉邦の妻で中国三大悪女の一人。彼女に反乱の企てを察知されてしまい、一族共々処刑された。
名台詞
Fate/Grand Order
メモ
- そのインパクト抜群の外見と言動が平野耕太の漫画『HELLSING』のキャラクター「モンティナ・マックス少佐」や、同作者の漫画『以下略』のキャラクター「ヒラノ」にそっくりなことから、プレイヤーからは主に「ヒラコー」と呼ばれている。
- 服装はよく見ると当時の中国の武装にマント姿という普通の物だが、のっぺりした水色のマントであるためトレーナーを着崩しているようにも見え、オタクっぽさに拍車をかけている。
- 肩には雀が停まっているが、おそらくは司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』の中で韓信を評しての言葉「雀の体に鳳凰の翼が生えているような男[注 3]」が元ネタと思われる。
- 中国異聞帯にて登場した急造装甲車「
多多益善 号」は「史記」の「淮陰侯列伝」の逸話に由来する。劉邦が韓信に「私はどれくらいの将か」と尋ねると、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵を率いる将です」と答えた。続けて「それなら君はどれくらいか」と尋ねると「多多益善(多ければ多いほどよい)」と答えた、というもの。- ただし、その後に韓信は「自分は兵士の将だが、陛下は『将の将』です」と答え、劉邦に配慮をしている。この発言を聞いた劉邦は非常に上機嫌になったと伝えられている。
- 「狡兎死して良狗烹られる」という言葉や、項羽からの天下三分の誘いを拒否したことなどから、劉邦の疑心暗鬼による粛清の被害者としてよくあげられるが、実情はまるで異なる。韓信は楚漢戦争中から、劉邦の足元を見て王位を強請る、劉邦の援軍要請を無視(このせいで劉邦は項羽に敗北した)など、たびたび問題行動を起こしていた。そもそも韓信が最初に劉邦に捕縛されることになったのも、指名手配されている楚の将軍「鍾離昩」を勝手に匿ったことが切っ掛けである。
- 秦末~楚漢戦争の時代には軍を預けた将が、攻め取った地で勝手に王を名乗り独立するという事例が多発しており、韓信の振る舞いは劉邦からすれば謀反人予備軍も同然のことである。ために劉邦は楚漢戦争中から、韓信から将である印綬と兵を奪ったり、韓信の攻め取った斉から、故郷への栄転の名目で領地の少ない楚王へ移すなど、韓信の力を削ぐことに注力していた。
- つまり韓信の粛清は半ば計画されていたもので、決して劉邦が疑心暗鬼で罪のない家臣を不当に殺したわけではない。フォローすると最初の捕縛で劉邦は、韓信を処刑することはなく淮陰侯への降格で留めており、韓信の処刑は劉邦に断りなく独断で行われた。なのであくまで可能性であるが、劉邦は韓信を警戒していても殺す気まではなかったかもしれない。しかし、韓信は戦後の冷遇の不満から反乱を決意し、陳豨に反乱を唆して劉邦が親征した際に首都長安を制圧する計画を企てたが、計画は事前に発し、蕭何と呂雉によって処刑された。
- この時、蕭何は韓信を確実に処刑するために「陳豨の反乱もすぐに鎮圧された」との嘘の情報を流して、自身の計画が露見した可能性を疑って警戒する韓信に「病身であることは知っている。御身に疑いを晴らすためにも、祝辞を述べに参内した方が良いだろう」と呼び出して油断を誘っている。韓信も警戒を怠ってはいなかったのだが、蕭何は韓信が劉邦に仕える際に韓信の良くない噂を知って登用を渋る劉邦を幾度となく説得して大将軍に取り立ててくれた経緯があり、韓信にとっては「立身出世のきっかけにもなった大恩ある人物」だった。そんな蕭何を韓信はこの時も信頼していたため、呆気なく捕まってしまった。
- 歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、「乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?」と反論)したため、劉邦もその言葉の正しさを認めて、助命した。
- 仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。
- とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われた。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。
- 彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
- しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろセミラミスとの関わりが深い可能性すらある。
- 韓信が冷遇されている間、劉邦は北方の騎馬民族匈奴を率いて攻めてきた「冒頓単于」と戦ったが、大敗して毎年貢物を送る条約を結ばされた。歴史マニアの間では、もし韓信が用いられ続けられ冒頓単于と戦っていたら…というifはよく語られる。
- 劉邦軍には別に「韓信」がいた。流石にややこしかったのか、そちらは主に「韓王信」と呼ばれていた。なお韓王信は後に匈奴へと寝返っている。