「大嶽丸」の版間の差分

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;達谷窟
 
;達谷窟
 
:岩手県西磐井郡平泉町に現存する窟。
 
:岩手県西磐井郡平泉町に現存する窟。
:蝦夷(ここでは先住民族のエミシを指す)が拠点としていた場所であり、坂上田村麻呂が蝦夷討伐記念として毘沙門天を祀る堂をこの地に建てた。
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:悪路王という賊が拠点としていたとされる場所であり、坂上田村麻呂が討伐した悪路王の鎮魂に鞍馬寺を模して毘沙門天を祀る堂を建てた。
:型月においては大嶽丸の根城とされているが、『吾妻鑑』では悪路王の拠点とされる。これは鈴鹿峠付近に残る大嶽丸の伝承が御伽草子『鈴鹿の草子』『鈴鹿の物語』『田村の草子』として、坂上田村麻呂は鈴鹿御前の助力で鈴鹿山の鬼神大嶽丸を討ち取ったものの、大嶽丸は天竺に置いてあった顕明連の霊力で黄泉帰り、陸奥の鬼[[悪路の高丸]]と連携して陸奥霧山を拠点に再び世を乱し始めたと物語化された。これら御伽草子を底本にした奥浄瑠璃『田村三代記』が江戸時代の東北で盛んに行われる過程で、大嶽丸は達谷窟の悪路王伝説と習合されていったとされる。
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:達谷窟に関する最古の記録は鎌倉幕府の公式記録を記したとされる『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条にある。奥州合戦で藤原泰衡を破った源頼朝が自身の奥州征伐の正統性を坂上田村麻呂・藤原利仁に準えて書かせたものとされる。
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:型月において大嶽丸の根城とされているが、『吾妻鑑』では悪路王の拠点とされる。これは鈴鹿峠付近に残る坂上田村麻呂と大嶽丸の伝承が平安京で御伽草子『鈴鹿の草子』『鈴鹿の物語』『田村の草子』として発展し、坂上田村麻呂は鈴鹿御前の助力で鈴鹿山の鬼神大嶽丸を討ち取ったものの、大嶽丸は天竺に置いてあった顕明連の霊力で黄泉帰り、陸奥の鬼[[悪路の高丸]]と連携して陸奥霧山を拠点に再び世を乱し始めたと物語化された。
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:これら御伽草子が東北に伝わったことで江戸時代には御伽草子を底本にした奥浄瑠璃『田村三代記』が盛んに行われたことで、大嶽丸は達谷窟の悪路王伝説と習合されていったとされる。
 
:こうして東北一帯に大嶽丸の伝説が定着した事で『奥州紀行』においては「大竹丸」という鬼の根城とされた。「大竹丸」は同音ゆえ「大嶽丸」と同一視されることがあり、こちらを採用したものと思われる。
 
:こうして東北一帯に大嶽丸の伝説が定着した事で『奥州紀行』においては「大竹丸」という鬼の根城とされた。「大竹丸」は同音ゆえ「大嶽丸」と同一視されることがあり、こちらを採用したものと思われる。
  

2018年2月7日 (水) 23:44時点における版

大嶽丸
読み おおたけまる
性別 男性
初登場作品 Fate/EXTRA CCC FoxTail
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大嶽丸

Fate/EXTRA CCC FoxTail』に登場する鬼。見た目はビジュアル系のイケメン。

略歴
達谷巌を拠点としていた。鈴鹿御前が日本侵略を目論んだ際、手を組もうと手紙を送っていたが全て無視していた。
後に偽りの花嫁として入り込んだ彼女に3年がかりで神通力をかけられ、討ち果たされた。
人物
詳細は不明だが、鈴鹿御前曰く、彼女がいくら勧誘しても無視していたが坂上田村麻呂と付き合い始めたとたん嫉妬し始めたとのこと。
没プロット「妖狐伝(仮)」を見る限り、鈴鹿御前に対して明らかに執着している。
能力
体が岩のように固く、弓も剣も受け付けない。
鈴鹿御前の神通力を持ってしても、花嫁を偽って接近してさえ解呪に3年かかったほど。

登場作品と役柄

Fate/EXTRA CCC FoxTail
セイバーの回想シーンに登場。
没プロット「妖狐伝(仮)」ではシナリオ上でも重要な役割を果たしていた模様。

人間関係

鈴鹿御前
懸想していた相手。当初は関心が無かったが、後に大きな執着心を見せている。
酒呑童子
同じ鬼として、面識があった模様。

名台詞

「愁眉を開け お前が俺のモノとなった以上 セラフですらこの夢を解くことなどできんよ」
没プロット「妖狐伝(仮)」にて、どこか魂の抜けたような鈴鹿御前を抱きかかえて。
「妖狐伝(仮)」では舞台となるのはセラフが生み出した夢のようだが、彼女はそれに捕われてしまったのであろうか。
なお、「愁眉を開く」は「安心する」の意。

メモ

  • 月姫」の頃から語られていたが、子孫や先祖帰りがほとんどで触れられてこなかった、本物の「鬼」。
    • 型月世界において鬼種とは「系統樹からして元から人間とは違う者」と、「朝廷から追われて隠れ住むようになった力ある者達が生物的にちょっとおかしくなってしまった者」の2種類がいるとされているが、大嶽丸がそのどちらであるかは不明。

話題まとめ

達谷窟
岩手県西磐井郡平泉町に現存する窟。
悪路王という賊が拠点としていたとされる場所であり、坂上田村麻呂が討伐した悪路王の鎮魂に鞍馬寺を模して毘沙門天を祀る堂を建てた。
達谷窟に関する最古の記録は鎌倉幕府の公式記録を記したとされる『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条にある。奥州合戦で藤原泰衡を破った源頼朝が自身の奥州征伐の正統性を坂上田村麻呂・藤原利仁に準えて書かせたものとされる。
型月において大嶽丸の根城とされているが、『吾妻鑑』では悪路王の拠点とされる。これは鈴鹿峠付近に残る坂上田村麻呂と大嶽丸の伝承が平安京で御伽草子『鈴鹿の草子』『鈴鹿の物語』『田村の草子』として発展し、坂上田村麻呂は鈴鹿御前の助力で鈴鹿山の鬼神大嶽丸を討ち取ったものの、大嶽丸は天竺に置いてあった顕明連の霊力で黄泉帰り、陸奥の鬼悪路の高丸と連携して陸奥霧山を拠点に再び世を乱し始めたと物語化された。
これら御伽草子が東北に伝わったことで江戸時代には御伽草子を底本にした奥浄瑠璃『田村三代記』が盛んに行われたことで、大嶽丸は達谷窟の悪路王伝説と習合されていったとされる。
こうして東北一帯に大嶽丸の伝説が定着した事で『奥州紀行』においては「大竹丸」という鬼の根城とされた。「大竹丸」は同音ゆえ「大嶽丸」と同一視されることがあり、こちらを採用したものと思われる。

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