伊勢新九郎
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クラス不明 | |
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真名 | 伊勢新九郎 |
読み | いせ しんくろう |
性別 | 男性 |
初登場作品 | ぐだぐだ太閤伝ZIPANG |
概要
『ぐだぐだ太閤伝ZIPANG』に登場したサーヴァント。
- 略歴
- 『ぐだぐだ太閤伝ZIPANG』にて、北条家が擁していたサーヴァント。
- 越後の国に攻め入り、当主であった長尾景虎を打ち破ったが、止めを刺すには至らなかった。
- その後に回復した彼女がたびたび上野国の沼田を脅かしてきたため迎撃に出たが、決戦で敗北し、おそらくは消滅したものと思われる。
- 人物
- 派手な服を着て、長い黒髪を大雑把にまとめた若武者。
- 性格も荒々しく、長尾景虎を「若造」呼ばわりして国盗りのイロハを教えてやると息巻いていた……が、必殺の状況から逃げられた際には戦慄しつつもその力を認め「自分の存在がバレた事は後々響くかもしれない」と分析する冷静さも持ち合わせている。
- その一方で全盛期の肉体で召喚されているため若さに逸る部分もあり、上記の失敗もそこに由来していると自己分析している。
- 能力
- 現役の戦国大名であった長尾景虎を破るほどの実力者。戦闘時は刀を使用していた。
ステータス
クラス | マスター | 筋力 | 耐久 | 敏捷 | 魔力 | 幸運 | 宝具 | クラス別能力 | 保有スキル | 備考 |
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宝具
- 劫焔五色火牛(おこりのほむらごしきかぎゅう)
- 炎でできた牛を五頭放って攻撃する宝具。
- 「城なら焼ける」と言っていたためそれなりの火力はあると思われ、事実長尾景虎を全身火傷で当分安静にさせるところまで追い込んだ。
- 元ネタは牛の頭に松明をつけて突撃させる「火牛の計」であろうか。
真名:伊勢新九郎
- 戦国時代初期に活躍した戦国大名。一介の武士から身を起こして伊豆と小田原を乗っ取り、後に関東に根を張る後北条氏の開祖となった。
……というのが従来の定説であったが、実際には伊勢氏は京の室町幕府に政所執事として仕え、時に次代の将軍となる足利家子息の養育にも関わるエリート官僚一族である。新九郎こと伊勢盛時も将軍足利義政の申次衆を務めており、のちに関東に下ったのは駿河の今川家に嫁いだ姉(妹とする史料もある)・北川殿が夫の死後に家督争いに巻き込まれた一件を解決するため、次いで足利将軍家の関東における出先機関・鎌倉府の長官職(公方)と関東管領・上杉家との対立に端を発する戦乱「享徳の乱」への部分的介入のため伊豆へと侵攻し、隣接する相模から着々と南関東への支配を拡げていったとされている。なお、小田原城の奪取に前後して「早雲庵宗瑞」と署名する文書が登場しており、出家という形で幕府の役職を辞したのではないかとの解釈がある。 - 明応4年ごろから晩年にかけて「早雲」と号したため「北条早雲」の名でも知られているが、苗字を北条と改めたのは息子の氏綱の代からなので、本人が「北条早雲」を名乗ったことは一度もない。
登場作品と役柄
Fateシリーズ
- ぐだぐだ太閤伝ZIPANG
- 北条家が擁するサーヴァントとして登場。
人間関係
ぐだぐだ太閤伝ZIPANG
- 北条氏政
- サーヴァントとして仕えている北条家の現当主。系譜としては曾孫にあたる。
- 長尾景虎
- 上杉家の現当主。
- 越後の国に殴り込み、敗走に追い込んだ。
- とはいえ「策に嵌めて死地に追い込んだのに食い破って逃げられた。死ぬかと思った」と恐れ慄くほどには事後には怪物として認識した模様。
- そこで取り逃がしたことが後で響くと予想していたが、事実後に沼田に攻めてきた彼女と決戦した際には敗北に追い込まれてしまった。
名台詞
メモ
- 息子の氏綱の代から苗字を「北条」としたのはかつての鎌倉幕府執権と同じ苗字を名乗ることで関東地方支配の正当化を主張するという理由が大きいものの、なんの縁もゆかりもないところからいきなり詐称したというわけではない。
鎌倉幕府執権の北条氏は桓武平氏・平貞盛の子孫が伊豆国の北条を領有したことから称した苗字であるが、新九郎の属する伊勢氏も桓武平氏の平維衡(貞盛の四男)の子孫が伊勢守となって以降に称した苗字である。
また、新九郎が今川家の家督争いに介入するため駿河へ下向した際、堀越公方足利政知の奉公衆として仕えたが、後の延徳3年に政知が没すると家中に内紛が勃発。一旦帰京していた新九郎が当時の将軍・足利義澄(政知の子)の命を受けて内紛の首謀者である足利茶々丸を討ち、伊豆国韮山城を与えられた。一説では、この前後に同国内に住む執権北条氏の末裔・北条行長の養子になったことが北条を名乗る根拠となったとされている。別説では息子の氏綱の正室・養珠院殿が執権北条氏の流れをくむ横井氏の出身であったからとも言われている。
いずれにせよ、氏綱が北条氏へと苗字を改めた数年後には朝廷から執権北条氏と同じく左京大夫の位を授けられており、この改称が朝廷・幕府公認の、いわば両上杉氏への敵対表明であった可能性も囁かれている。
話題まとめ
脚注
注釈
出典