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*上記の通り「四奸(もしくは四姦臣)」は水滸伝内で呼称される架空の枠組みで、「六賊」は北宋が女真族の金に滅ぼされる直前に即位した欽宗によって糾弾された際に呼ばれた枠組みであり、両者が融合した「四奸六賊」は架空と史実が重なっている。ただし、高俅、楊戩は史実であくまでも六賊に含まれる事が無かっただけで、実在の人物である。
*上記の通り「四奸(もしくは四姦臣)」は水滸伝内で呼称される架空の枠組みで、「六賊」は北宋が女真族の金に滅ぼされる直前に即位した欽宗によって糾弾された際に呼ばれた枠組みであり、両者が融合した「四奸六賊」は架空と史実が重なっている。ただし、高俅、楊戩は史実であくまでも六賊に含まれる事が無かっただけで、実在の人物であるが、人物像には差がある。
**高俅は燕青の主である盧俊義を死に追いやった人物で、作中の彼からは「蹴鞠野郎」と忌み嫌われている。水滸伝の物語では最大の悪役として存在感を放つが、史実では軍事費着服に手を染めるなど奸臣だったのは事実だが、他の奸臣達と比べると悪行と業績に関して大きく劣っている小悪党の印象が強い。また、旧法派の蘇軾の元で書記を務めていた経験があり、後に新法派であった蔡京によって蘇軾の一族が追い落とされて困窮した際には恩義に報いるべく、生涯に渡って援助を行い続けた逸話も残るなど義理堅い一面も伝えられる。史実の高俅は良くも悪くも任侠寄りの人物であったとされており、史実と水滸伝では人物像にかなりの差がある。
**高俅は燕青の主である盧俊義を死に追いやった人物で、作中の彼からは「蹴鞠野郎」と忌み嫌われている。水滸伝の物語では最大の悪役として存在感を放つが、史実では軍事費着服に手を染めるなど奸臣だったのは事実だが、他の奸臣達と比べると悪行と業績に関して大きく劣っている小悪党の印象が強い。また、旧法派の蘇軾の元で書記を務めていた経験があり、後に新法派であった蔡京によって蘇軾の一族が追い落とされて困窮した際には恩義に報いるべく、生涯に渡って援助を行い続けた逸話も残るなど義理堅い一面も伝えられる。史実の高俅は良くも悪くも任侠寄りの人物であったとされており、史実と水滸伝では人物像にかなりの差がある。
**楊戩は宦官で、水滸伝の物語では出番は控えめだが、梁山泊の李逵(りき)とひと悶着があり、以降は梁山泊を敵視。最終的に梁山泊の毒殺を進言する人物となっている。史実では「索民田契の法」を施法し、強引に農民から土地を取り上げて重税を課す。また漁民にもあれこれと重税を課し、徴税も過酷を極めたため、楊戩と実行部門の「西城所」は民衆からは非常に恨まれたとされる。北宋の財政も一時的に回復したが、一度苛烈な徴税を行った土地は荒れ果ててしまったため、結局は北宋の首を絞める結果になっている。六賊が失脚する前である1121年に死去しており、死後は大尉の職を送られ、呉国公と諡をされている。史実では高俅同様に六賊には含まれていないが、創作よりも史実の方がかなり悪党であり、高俅とは真逆である。六賊に含まれなかったのも、他の六賊達が糾弾された際に死去済みだった事が大きいとされる。
**楊戩は宦官で、水滸伝の物語では出番は控えめだが、梁山泊の李逵(りき)とひと悶着があり、以降は梁山泊を敵視。最終的に梁山泊の毒殺を進言する人物となっている。史実では「索民田契の法」を施法し、強引に農民から土地を取り上げて重税を課す。また漁民にもあれこれと重税を課し、徴税も過酷を極めたため、楊戩と実行部門の「西城所」は民衆からは非常に恨まれたとされる。北宋の財政も一時的に回復したが、一度苛烈な徴税を行った土地は荒れ果ててしまったため、結局は北宋の首を絞める結果になっている。六賊が失脚する前である1121年に死去しており、死後は大尉の職を送られ、呉国公と諡をされている。史実では高俅同様に六賊には含まれていないが、創作よりも史実の方がかなり悪党であり、高俅とは真逆である。六賊に含まれなかったのも、他の六賊達が糾弾された際に死去済みだった事が大きいとされる。
*六賊の各構成員はかなり個性的で、内実は下記の通り。徽宗が芸術家皇帝だったため、文化人や芸術に博識な人物が多い。
*六賊の各構成員はかなり個性的で、内実は下記の通り。徽宗が芸術家皇帝だったため、文化人や芸術に博識な人物が多い。
**蔡京:16年間に渡り宰相を務めた。極めて優れた実務能力を持つが権力欲が強く、主義主張に節操がなかったと言われる。優れた文化人であり、絵画や詩文に優れた技量を持つ。しかし、宰相時代の後期には徽宗の詔に振り回され、政治的影響力を失ってしまう。ちなみに息子の蔡攸も奸臣だった。
**蔡京:16年間に渡り宰相を務めた。極めて優れた実務能力を持つが権力欲が強く、主義主張に節操がなかったと言われる。優れた文化人であり、絵画や詩文に優れた技量を持つ。特に書道に関しては達人の域で宋代を代表する四名の書道家「'''四絶'''」の一人に数えられる事もある<ref group="注">悪行のため、同族の蔡襄が四絶に数える事もある</ref>。しかし、宰相時代の後期には徽宗の詔に振り回され、政治的影響力を失ってしまう。ちなみに息子の蔡攸も奸臣で父とは対立したと言われる。
**童貫:宦官将軍。去勢され男性機能を失ったはずの宦官にも関わらず、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした巨躯を誇りで顎鬚まで生えていたという怪人物(通常、去勢されると男性ホルモンの分泌が低下するため、髭が生えなくなり筋肉も衰える)。骨董の目利きに優れたため出世できたとされる。
**童貫:宦官将軍。20年に渡り北宋軍の軍権を掌握した。去勢され男性機能を失ったはずの宦官にも関わらず、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした巨躯を誇りで顎鬚まで生えていたという怪人物(通常、去勢されると男性ホルモンの分泌が低下するため、髭が生えなくなり筋肉も衰える)。骨董の目利きに優れたため、徽宗に気に入られた。
**李彦:楊戩の死後、西城所の機構を掌握して不法に膨大な土地を収め農民から収奪を繰り返した宦官。
**李彦:楊戩の死後、西城所の機構を掌握して不法に膨大な土地を収め農民から収奪を繰り返した宦官。
**朱勔:優れた庭師で徽宗が好んだ「花石綱」運搬のために民衆徴発や民家の破壊を行い民衆から恨みを買った。
**朱勔:優れた庭師で徽宗が好んだ「花石綱」運搬のために民衆徴発や民家の破壊を行い民衆から恨みを買った。
**王黼:蔡京の子分で引退後は宰相を引き継き、婦女暴行や汚職を繰り返した。
**王黼:蔡京の子分で、彼の抜擢により急激に出世。引退後は蔡京から宰相を引き継き、徽宗に様々な珍しい品を献上して信頼を得た。本人は婦女暴行や汚職を繰り返したとされる。
**梁師成:宦官でありながら科挙に合格するなど学識と芸術に優れ、影の宰相と言われた。
**梁師成:宦官でありながら科挙に合格するなど学識と芸術に優れ、影の宰相と言われた。
*徽宗と六賊によって北宋の国内は大きく乱れ、国力は低下。そして外交でも不義理を重ねてしまい、北宋滅亡の原因を作る事になる。
*徽宗と六賊によって北宋の国内は大きく乱れ、国力は低下。そして外交でも不義理を重ねてしまい、北宋滅亡の原因を作る事になる。
**北方の遼(契丹人の王朝)が勃興した金(女真族の王朝)によって滅亡寸前に陥ると北宋は金と同盟を結び、遼を挟み撃ちにする事で、燕雲十六州(約百八十年前の五代十国時代の後晋によって遼に割譲された領域で現在の北京周辺地域)の奪還を目論んだ。しかし、北宋の苛政に耐えられなくなった江南地方のマニ教徒による「方臘の乱」が発生し、遼に対する攻撃が遅れてしまう。更に燕京攻略戦でも童貫は滅亡寸前の遼に大敗、結局は金に燕京を落としてもらう事になり、領域の一部は北宋に引き渡される。しかし、北宋首脳部は燕雲十六州の完全奪還を目論み、遼の残党と手を結んだが、金にはすぐに察知されてしまい、金軍は北宋に侵攻を開始。軍事責任者の童貫が敵前逃亡を行うなど北宋は完全敗退し、徽宗は自ら退位し、欽宗に帝位を譲り、莫大な財貨を金に引き渡すことを約束して停戦が成立。そして、欽宗によって蔡京、童貫、李彦、朱勔、王黼、梁師成は「'''六賊'''」として糾弾され、死罪に処された。ただ蔡京は流刑先へ向かう途中に病死し、人々を悔しがらせたと言われている。
**北方の遼(契丹人の王朝)が勃興した金(女真族の王朝)によって滅亡寸前に陥ると北宋は金と同盟を結び、遼を挟み撃ちにする事で、燕雲十六州(約百八十年前の五代十国時代の後晋によって遼に割譲された領域で現在の北京周辺地域)の奪還を目論んだ。しかし、北宋の苛政に耐えられなくなった江南地方のマニ教徒による「方臘の乱」が発生し、遼に対する攻撃が遅れてしまう。更に燕京攻略戦でも童貫は滅亡寸前の遼に大敗、結局は金に燕京を落としてもらう事になり、領域の一部は北宋に引き渡される。しかし、北宋首脳部は燕雲十六州の完全奪還を目論み、遼の残党と手を結んだが、金にはすぐに察知されてしまい、金軍は北宋に侵攻を開始。軍事責任者の童貫が敵前逃亡を行うなど北宋は完全敗退し、徽宗は自ら退位し、欽宗に帝位を譲り、莫大な財貨を金に引き渡すことを約束して停戦が成立。そして、欽宗によって蔡京、童貫、李彦、朱勔、王黼、梁師成は「'''六賊'''」として糾弾され、死罪に処された。ただ蔡京は流刑先へ向かう途中に病死し、人々を悔しがらせたと言われている。
**しかし、徽宗の退位と六賊の排除を経ても北宋が立て直されることはなかった。欽宗を始めとする北宋首脳陣の金に対する現状認識は甘く、結局は金に差し出す財貨を惜しみ遼の残党と再び接触した事を金に嗅ぎ付けられてしまい、再度行われた軍事侵攻で北宋首都「開封」は陥落。皇帝欽宗や先帝徽宗を始め、4歳から28歳までの皇女達や宮女数千人、財宝などあらゆる物が金によって略奪される「'''靖康の変'''」によって北宋は滅亡。城外で難を逃れた趙構によって南宋が建国された事で、宋王朝は命脈を辛うじて保つことに成功する。なお、略奪された皇女や宮女達の末路は悲惨なもので、金の将兵達に散々陵辱された挙げ句に「洗衣院」と呼ばれる公設の娼館で娼婦となる事を強要されたと言われている。
**しかし、徽宗の退位と六賊の排除を経ても北宋が立て直されることはなかった。欽宗を始めとする北宋首脳陣の金に対する現状認識は甘く、結局は金に差し出す財貨を惜しみ遼の残党と再び接触した事を金に嗅ぎ付けられてしまい、再度行われた軍事侵攻で北宋首都「開封」は陥落。皇帝欽宗や先帝徽宗を始め、4歳から28歳までの皇女達や宮女数千人、財宝などあらゆる物が金によって略奪される「'''靖康の変'''」によって北宋は滅亡。城外で難を逃れた趙構によって南宋が建国された事で、宋王朝は命脈を辛うじて保つことに成功する。なお、略奪された皇女や宮女達の末路は悲惨なもので、金の将兵達に散々陵辱された挙げ句に「洗衣院」と呼ばれる公設の娼館で娼婦となる事を強要されたと言われている。
**六賊が北宋滅亡の下地を作ったのは事実だったが、滅亡の決定打はその六賊を排除した欽宗の手によって行われるという結果になった。ちなみに蔡京のみは燕雲十六州の奪還作戦に反対していたとされ、唯一先行きを見据えていた節がある。
**六賊が北宋滅亡の下地を作ったのは事実だったが、滅亡の決定打はその六賊を排除した欽宗の手によって行われるという皮肉な結果になった。ちなみに蔡京のみは燕雲十六州の奪還作戦に反対していたとされ、唯一先行きを見据えていた節がある。
**なお、「六賊」として一括りにされているが、彼ら全員が結託していた訳ではなく、六賊同士で権力闘争が行われている。
**なお、「六賊」として一括りにされているが、彼ら全員が結託していた訳ではなく、六賊同士で権力闘争が行われている。
*四奸は水滸伝の物語で皇帝徽宗に取り入っている4名の奸臣達の総称として登場。最終的には宋江と盧俊義に毒を盛り殺害し宋江の死を知った呉用と花栄も自害したため、梁山泊が滅亡。皇帝徽宗は四奸が梁山泊を死に追いやった事を知り激怒するが、結局は四奸の言い逃れを信じてしまい、叱責に留めてしまう。四奸は全員が五体満足のまま物語が終了し、'''悪党が勝利するという結末'''となる。そのためか、二次創作である『水滸後伝』では四奸の生き残りであった高俅、蔡京、童貫、蔡攸(蔡京の息子)は流罪となり、流罪の際に梁山泊残党によって殺害される結末が用意されている(楊戩は死去済み)。
*四奸は水滸伝の物語で皇帝徽宗に取り入っている4名の奸臣達の総称として登場。最終的には宋江と盧俊義に毒を盛り殺害し宋江の死を知った呉用と花栄も自害したため、梁山泊が滅亡。皇帝徽宗は四奸が梁山泊を死に追いやった事を知り激怒するが、結局は四奸の言い逃れを信じてしまい、叱責に留めてしまう。四奸は全員が五体満足のまま物語が終了し、'''悪党が勝利するという結末'''となる。そのためか、二次創作である『水滸後伝』では四奸の生き残りであった高俅、蔡京、童貫、蔡攸(蔡京の息子)は流罪となり、流罪の際に梁山泊残党によって殺害される結末が用意されている(楊戩は死去済み)。