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| :: 治承3年(1179年)頃から建長6年(1254年)までの約80年の間に鈴鹿山の盗賊・立烏帽子は女盗賊であり、鈴鹿姫を崇敬していたとされる下地が完成していたことが受け取れる。こうした背景から両者は鈴鹿明神と田村明神を介して御伽草子の世界観で混同・同一視されていくことになる。 | | :: 治承3年(1179年)頃から建長6年(1254年)までの約80年の間に鈴鹿山の盗賊・立烏帽子は女盗賊であり、鈴鹿姫を崇敬していたとされる下地が完成していたことが受け取れる。こうした背景から両者は鈴鹿明神と田村明神を介して御伽草子の世界観で混同・同一視されていくことになる。 |
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| + | :; 坂上田村麻呂との仕合わせ |
| + | :: 平安時代から鎌倉時代にかけて鈴鹿峠で天女・鈴鹿御前と女盗賊・立烏帽子の伝説が創出された頃、鈴鹿峠の近江側の麓でも坂上田村麻呂の伝説が創出されていた。近江国土山の田村神社の縁起によると薬子の変で鈴鹿山で藤原仲成を討伐した田村麻呂の死後、怨霊となった仲成の賊徒の執心が祟りとなって都に病をもたらしたため、鈴鹿山の西にある二子山の峰に田村麻呂を祀ることで賊徒の執心を封じたという。 |
| + | ::: この鈴鹿山の賊徒の執心が室町時代初期の能『田村』で田村麻呂が清水寺の千手観音の加護を受けて討伐した伊勢国鈴鹿の悪魔(鬼神)となり、『田村』を下地とした御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』では鈴鹿山の[[大嶽丸]]となった。 |
| + | :: 南北朝時代に入ると軍記物が盛んに創出された。特に『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では「源家相伝の鬼切の剣は坂上田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせした時に用いた」と田村麻呂から[[源頼光]]への宝剣継承譚が語られる。鈴鹿山を介した鈴鹿御前と坂上田村麻呂の出会いは当然の帰結であり、『太平記』の宝剣継承譚は頼光の酒呑童子討伐にも引用されるなど後世の物語の雛形となっている。 |
| + | :: 室町時代の鈴鹿山の様子が記録されている『耕雲紀行』によると「日本を煩わせた鈴鹿姫を田村丸が討伐したが、その時に身に付けていた立烏帽子を投げたのが石となり、麓に社を建てて巫女が祀る」と鈴鹿峠の鏡石と土山にある田村神社の由緒が記録されている。その中で天女・鈴鹿御前と女盗賊・立烏帽子の混同・同一視が進んでいることが受け取れる。同時に『耕雲紀行』が献上された応永26年(1419)には御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』の原型となる地域伝承が成立していたことも証明する。 |
| + | :: 文明18年(1486年)の『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」のうち田村すずゞかの物語に利重の子が利祐であり利祐の子が日りやう殿である、日りやう殿が16の年に将軍の宣旨をうけて利仁将軍と申す、日りゆう殿の子がいなせの五郎で坂上利宗を名乗り16の年に宣旨をうけて田村将軍と申すとの記述がある。親子三代に渡る筋書が一致することから文明18年には『鈴鹿の草子(田村の草子)』が成立していたことが判明している。 |
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| + | :; 『鈴鹿の草子』と『田村の草子』 |
| + | :: 『鈴鹿の草子(田村の草子)』は立烏帽子もしくは鈴鹿御前の立場によって「鈴鹿系」と「田村系」の2つの系統に物語が分類されている(学術的には細部の変更点から7つの系統に分類するなどの研究もあるが、いずれも鈴鹿系もしくは田村系からの派生となる)。 |
| + | :: 鈴鹿系は室町時代後期成立の『鈴鹿の草子』から派生した古写本の系統で、田村将軍と日本を魔国にするために鈴鹿山へと降臨した第六天魔王の娘・立烏帽子が戦いを経て婚姻すると共に日本の鬼退治をする古い形態の筋書を残している。この物語では天の魔焰である立烏帽子が当初から三明の剣を所有しているため、大嶽丸が黄泉から帰還することはない。 |
| + | ::: 鈴鹿では第六天魔王の娘・立烏帽子とされているが、時代背景としては庶民に広く流布していた中世日本記の第六天魔王譚が想起される。 |
| + | :: 田村系は『鈴鹿の物語』の流布本の系統で、日本を魔国にしようと企んだ鈴鹿山の大嶽丸の討伐に向かう田村将軍と、田村将軍に助力をするために天下った天女・鈴鹿御前が婚姻して共に日本の鬼退治をする絵巻・絵本・版本などの物語。 |
| :; 天の魔焰・立烏帽子 | | :; 天の魔焰・立烏帽子 |
− | :: 南北朝時代から室町時代かけて軍記物が盛んに創出された。特に『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では坂上田村麻呂から[[源頼光]]への宝剣継承譚が語られており「源家相伝の鬼切の剣は田村麻呂が'''鈴鹿御前'''と剣合わせした時に用いた」とある。鈴鹿峠の地域伝承に登場する両者の出会いは当然の帰結であった。 | + | :: 『鈴鹿の草子』で立烏帽子が第六天魔王の娘として設定された時代背景として日本中世に広く流布していた中世神話のうち、第六天魔王譚の影響が指摘されている。中世神話とは、『古事記』『日本書紀』『風土記』など日本神話に基づきながらも、本地垂迹説などに則り仏教の諸天諸仏と同一視して作られた数々の神話群である。学術用語で中世日本紀と呼称される。 |
− | :: この頃には御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』(以下『田村の草子』)ないし『田村の草子』の原型となる物語が成立していたようで、室町時代の鈴鹿山の様子が記録されている『耕雲紀行』では「'''日本を煩わせた鈴鹿姫'''を田村丸が討伐したが、その時に身に付けていた立烏帽子を投げたのが石となり、麓に社を建てて巫女が祀る」と天の魔焰として語られている。 | + | :: 『沙石集』巻第一の第一条「太神宮御事」では、弘長4年(1264年)に伊勢神宮を参拝した僧・無住道暁が伊勢神宮の神職に聞いた話として「天地開闢の頃、大海の底に大日如来の印文があった。天照大神が鉾で探り当てると鉾先の印文の滴の露が落ちて日本が出来た。その様子を遥か遠くから見た第六天魔王は「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」と日本が仏国土となり魔界の障りになることを危惧して滅ぼそうと攻めてきた。これに対し天照大神は「我は三宝(仏・法・僧)の名も言わない、自らにも近づけないから帰り給え」と約束して退けた」という。この第六天魔王との約束があるため伊勢神宮では外向きには三法を疎ましく思っているが、内心は深く三宝を守っている。日本の仏法は伊勢神宮によって守護されているという。『沙石集』のこの一節は仏教の広まりに対し、伊勢神宮としては仏教を避けているのは理由があり、けっして嫌っているわけではないことを民衆に語る前提で記されている。 |
− | :: この物語に登場する立烏帽子/鈴鹿御前は、文明18年(1486年)の『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」に『田村の草子』同様の概要が記されているため、1486年以前には成立していたことが判明している。田村麻呂が鈴鹿山の悪魔(鬼神)を討伐して清水寺を建立する物語筋の世阿弥作とされる能『田村』をベースとして、天女・鈴鹿姫や盗賊・立烏帽子の言い伝えを組み合わせたものが『立烏帽子』『鈴鹿の草子』など御伽草子の原型だろう。例えば『田村の草子』では、大和国奈良坂山の金つぶてを打つ化生の霊山を討伐した田村丸俊宗が将軍に任命されるが、『宝物集』の「奈良坂の金礫や鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑された」との一節から立烏帽子と共に引用されている。 | + | :: 第六天魔王譚は幸若舞『百合若大臣』や『平家物語』屋台本「剣巻」など多くの中世文芸に多大な影響を与えている。特に『太平記』巻十六「日本朝敵事」では天照大神との仏法を忌避する約束に怒りを鎮めた第六天魔王が、天照大神の子孫を日本の主(天皇)とし、もし日本の主に反乱する者が現れれば第六天魔王の一族がこれを懲らしめる事を誓い、その約束の証拠として第六天魔王から賜ったのが神璽であるとする。この神璽は八尺瓊勾玉を指し、日本中世において八尺瓊勾玉は印であるとされていた。立烏帽子が第六天魔王の娘とされた背景には、日本の主に反乱する者=大嶽丸が現れたことで、天照大神との契約によって第六天魔王の一族である立烏帽子が降臨した第六天魔王譚が引用されている。 |
− | :: 『田村の草子』は立烏帽子/鈴鹿御前の立場によって物語の系統が二種類に分類される。ひとつは「鈴鹿系」と呼ばれ、日本を魔国にするために鈴鹿山へと降臨した'''第六天魔王の娘・立烏帽子'''だが、自分を討伐しに来た田村将軍との戦いを経て改心、結婚して共に日本の鬼退治をする古い形態を残した古写本系統の物語。ひとつは「田村系」と呼ばれ、日本を魔国にしようと企んだ鈴鹿山の大嶽丸を討伐に向かう田村将軍に助力をするために天下った'''天女・鈴鹿御前'''が、田村将軍と結婚して共に日本の鬼退治をする「鈴鹿系」を改編した絵巻・絵本・版本など流布本系統の物語。また「鈴鹿系」では第六天魔王の娘とされているが、時代背景としては庶民に広く流布していた中世日本記の第六天魔王譚が想起される。
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− | :: 江戸時代になると仙台藩を中心にして盲目の法師によって語られた奥浄瑠璃『田村三代記』が成立する。これは『田村の草子』の舞台を東北地方に置き換えたものであるが、東国の武家では第六天魔王信仰が盛んであったためか'''第六天魔王の娘・立烏帽子'''とされている。奥浄瑠璃は口頭のみで後世に伝えられる口承文学のため正本は存在せず、現在使われている写本は上演されたものを文字起こししたもののため、その内容には異同が多い。そのひとつが'''第四天魔王の娘・立烏帽子'''とする写本の存在である。『田村三代記』の元となった『田村の草子』では第六天魔王の娘であり、仏教には第四天魔王という概念が存在しないことから口承文学の性質から偶然の誤りであるとされる。
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− | : 『Fate/Grand Order material Ⅴ』には「この鈴鹿御前は第四天魔王の娘である」とあり、『Fate/EXTRA CCC FoxTail』『Fate/Grand Order』でも第四天魔王の娘としていることから、上記のうち奥浄瑠璃『田村三代記』で第四天魔王と書かれた写本をベースにしているものと思われる。
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− | ; 中世日本紀 | + | :; 第四天魔王 |
− | : 鈴鹿御前が第六天魔王の娘とされた時代背景として日本中世に広く流布していた中世神話のうち、第六天魔王譚の影響が指摘される。中世神話とは、『古事記』『日本書紀』『風土記』などの日本神話に基づきながら、本地垂迹説などに則りつつ仏教の諸天諸仏と同一視して作られた数々の神話群である。学術用語で中世日本紀と呼称される。
| + | :: 江戸時代になると仙台藩を中心にして盲目の法師によって語られた奥浄瑠璃『田村三代記』が成立する。これは『鈴鹿の草子(田村の草子)』の舞台を東北地方に置き換えたものであるが、東国の武家では第六天魔王信仰が盛んであったためか第六天魔王の娘・立烏帽子とされている。奥浄瑠璃は口頭のみで後世に伝えられる口承文学のため正本は存在せず、現在使われている写本は上演されたものを文字起こししたもののため、その内容には異同が多い。そのひとつが第四天魔王の娘・立烏帽子とする写本の存在である。『田村三代記』の元となった『田村の草子』では第六天魔王の娘であり、仏教には第四天魔王という概念が存在しないことから口承文学の性質から偶然の誤りであるとされる。 |
− | : 『沙石集』巻第一の第一条「太神宮御事」では、弘長4年(1264年)に伊勢神宮を参拝した僧・無住道暁が伊勢神宮の神職に聞いた話として、以下のように記している。
| + | :: 『Fate/Grand Order material Ⅴ』には「この鈴鹿御前は第四天魔王の娘である」とあり、『Fate/EXTRA CCC FoxTail』『Fate/Grand Order』でも第四天魔王の娘としていることから、上記のうち奥浄瑠璃『田村三代記』で第四天魔王と書かれた写本をベースにしているものと思われる。 |
− | :: 「天地開闢の頃、大海の底に大日如来の印文があった。天照大神が鉾で探り当てると鉾先の印文の滴の露が落ちて日本が出来た。その様子を遥か遠くから見た第六天魔王は「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」と日本が仏国土となり魔界の障りになることを危惧して滅ぼそうと攻めてきた。これに対し天照大神は「我は三宝(仏・法・僧)の名も言わない、自らにも近づけないから帰り給え」と約束して退けた」という。この第六天魔王との約束があるため伊勢神宮では外向きには三法を疎ましく思っているが、内心は深く三宝を守っている。日本の仏法は伊勢神宮によって守護されている。 | |
− | : 『沙石集』のこの一節は仏教の広まりに対し、伊勢神宮としては仏教を避けているのは理由があり、けっして嫌っているわけではないことを民衆に語る前提で記されている。
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− | : 第六天魔王譚はその後も幸若舞『百合若大臣』や『平家物語』屋台本「剣巻」など多くの中世文芸に影響を与える。特に有名なのが『太平記』巻十六「日本朝敵事」で、天照大神が仏法を忌避する約束に怒りを鎮めた第六天魔王は、天照大神の子孫を日本の主(天皇)とし、もし日本の主に反乱する者が現れれば第六天魔王の一族がこれを懲らしめる事を誓い、その約束の証拠として第六天魔王から賜ったのが神璽であるとする。この神璽は八尺瓊勾玉を指し、日本中世において八尺瓊勾玉は印であるとされていた。 | |
− | : こうした中世神話が広く流布していた時代に創出されたのが御伽草子『田村の草子』であり、第六天魔王の娘・鈴鹿御前として坂上田村麻呂と夫婦となって活躍するのは中世神話の広まりが関係している。 | |
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