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**或いは、聖堂教会の宗教に深い縁を持つ英霊であるが故に「西洋圏(文化)由来の英霊」という条件が適用出来たとも考えられる。
 
**或いは、聖堂教会の宗教に深い縁を持つ英霊であるが故に「西洋圏(文化)由来の英霊」という条件が適用出来たとも考えられる。
 
**中立である筈のルーラーでありながら、[[ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア|ダーニック]]や彼のサーヴァントと激突したと言う点から、何らかのイレギュラーで召喚された(ゆえに西洋限定の条件が適用されなかった)とも考えられる。
 
**中立である筈のルーラーでありながら、[[ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア|ダーニック]]や彼のサーヴァントと激突したと言う点から、何らかのイレギュラーで召喚された(ゆえに西洋限定の条件が適用されなかった)とも考えられる。
***その場合、現れた大聖杯が「無色透明の魔力」を湛えていた(本来ならば[[アヴェンジャー]]に汚染されて黒い泥となっている)点から、アインツベルンがアヴェンジャーの代わりに違法召喚したサーヴァントと言う可能性もあるだろう。現時点では予測にすぎないが。
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***その場合、現れた大聖杯が「無色透明の魔力」を湛えていた(stay nightでは[[アヴェンジャー]]に汚染されて黒い泥となっている)点から、アインツベルンがアヴェンジャーの代わりに違法召喚したサーヴァントと言う可能性もある。現時点では予測にすぎないが。
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*キャスターに強化された「とある剣豪が使っていた日本刀」は、元ネタを鑑みると二刀流の剣士、もしくは隻眼の剣士が使っていたものと思われる。
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== 話題まとめ ==
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;キリシタン弾圧
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:いわゆる、バテレン追放令などのキリシタン弾圧を初めて行ったのが豊臣秀吉であり、その政策は徳川家康に引き継がれることになる。秀吉や家康がキリシタン弾圧を推し進めたのは、織田信長の元で一向一揆の脅威に晒された事がその根底にある。『宗教』という『怪物』に支配された民衆がどれほど恐ろしいかを2人は身をもって経験しており、政権を握ると信長が段階的に行ってきた政教分離政策を更に加速させていく事となる。<br>しかし、イエズス会によって日本にもたらされたキリスト教はこの政策に中々従おうとせず(当時の欧州ではバチカンの法王の権威は、各国の国王より上位だった)、しかもキリスト教に帰依した大名達も秀吉に反発する有様であった。<br>秀吉は、この原因はキリスト教にあると判断し、バテレン追放令に代表されるキリシタン弾圧を開始する。一方、日本にいた宣教師達はこの事件に驚愕し、当時、欧州最強国であったイスパニアの国王フェリペ2世に無敵艦隊の出動を手紙で要請した程である(もっとも、その内容といえば'''「5万の兵力もあれば九州ぐらいは簡単に制圧できる」'''というご都合主義満載の代物(秀吉がバテレン追放令を出した当時、'''肝心の無敵艦隊はドレイクにフルボッコにされた後だった上に、九州には朝鮮出兵の為に30万を超える兵力が集結しており、5万程度の兵力では瞬殺されるのは確実である''')であり、宣教師達がいかに国王というものを軽視していたかが伺える)。<br>弾圧の内容は過酷を極めたものだったが、この政策が結果として日本の植民地化を防ぐ事となる。
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;島原の乱
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:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、実際は過重な年貢の取りたてが根本原因であり、キリシタンの反攻は2の次だった。<br>当時、島原藩を統治していた松倉勝家の治世は残虐を極め、多くの農民が暴政に苦しんでいた。『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。こういった暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。<br>一揆軍は当初こそ優勢に進めていたものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくるに従って追い詰められていき、島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。<br>幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで対処しよとするも、総大将に任じられた板倉重昌に討伐軍を統率するだけの力量が無く、攻撃は全て失敗。遂には重昌が戦死する事態となってしまう。驚愕した幕府は「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱を総大将として派遣。援軍を得た討伐軍は12万を数えたという。<br>信綱は無理な攻城は行わず、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると、兵糧攻めにして一揆軍の弱体化を計った。篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日、遂に総攻撃を開始、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。なお、立て篭もった3万7千人全員が討ち取られたとされているが、最近の史料では1万人ほどが投降・脱出するなどして命を失わなかったと言われている。<br>乱の鎮圧後、松倉勝家は暴政によって騒乱を招いた責任を問われて改易された上に江戸に罪人として送られ、1638年8月、斬首刑となった。大名が切腹ではなく斬首となったのは後にも先にもこの時だけであり、さすがの幕府も勝家の暴政を重罪と見なした事が伺える。
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;魔界転生
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:ご存知、山田風太郎の伝奇アクション小説であり、Fateシリーズの原点ともなった作品である。発表当初は「おぼろ忍法帖」というタイトルだったが、1981年の映画化の際に現在のタイトルに変更された。「氷室の天地」で語られているように原作では森宗意軒が黒幕となっているが、81年の映画化以降に製作された作品群では、天草四郎が魔界衆の頭目となっている。<br>映画で天草四郎が頭目となった理由は単純で、原作のままでは2時間という尺に収まらないので森(と由比正雪)の役割を四郎に集約させたのである。また、原作にはない細川ガラシャを魔界衆に加えたのは「お色気が足りない」との監督の深作欣ニの意向が働いた為で、山田も「ガラシャは思いつかなかった」と深作のアイデアに驚いたという。<br>81年の映画では天草四郎を沢田研二、対する柳生十兵衛は千葉真一が演じ、観客動員数200万人を超える大ヒット作となった。なお、封切り日は当初は6月13日にする予定だったが1週早めて6月6日6時に封切りし、「666のオーメン」と称されて公開された。<br>クライマックスの江戸城大炎上での殺陣はCGや特撮ではなく'''本物の炎の海の中で演じる'''という危険極まりないもので、出演者は文字通り命がけで撮影に望んだ。<br>この映画での天草四郎の人物像は非常に強烈なもので、特にラストシーンで十兵衛に斬り飛ばされた'''生首'''を小脇に抱えて哄笑するシーンは、沢村研二のイケメン顔と相まって大変印象深いシーンとなっている。
    
== リンク ==
 
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*[[登場人物]]
 
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