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486 バイト追加 、 2017年10月24日 (火) 00:17
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: このような状況に業を煮やした秀吉はついにバテレン追放令に代表されるキリシタン弾圧に踏み切る。その内容は過酷を極めたが、結果的には日本の植民地化を防いだ一因になったのも確かだろう。
 
: このような状況に業を煮やした秀吉はついにバテレン追放令に代表されるキリシタン弾圧に踏み切る。その内容は過酷を極めたが、結果的には日本の植民地化を防いだ一因になったのも確かだろう。
 
: 日本にいた宣教師達はバックに西欧の軍事国家がついている自分達を弾圧し始めた日本政権の方針に驚愕し、当時の欧州最強国であったイスパニア(現スペイン)の国王フェリペ2世に無敵艦隊の出動を手紙で要請した程である。もっとも、その内容といえば'''「5万の兵力もあれば九州ぐらいは簡単に制圧できる」'''というあまりにも日本の国力をみくびり過ぎた杜撰な見積もり<ref>秀吉がバテレン追放令を出した当時、'''肝心の無敵艦隊は[[フランシス・ドレイク]]に壊滅させられた直後だった'''上に、当時の九州には朝鮮出兵の為に30万を超える兵力が集結していた為、5万程度の兵力では瞬殺されるのがオチである。ついでに言うと、当時の日本は'''50万丁以上の鉄砲を有する世界最強の軍事大国'''でもあった。</ref>であり、当時の宣教師達がいかに国王というものを軽視し、東洋諸国を舐めていたかが伺える。
 
: 日本にいた宣教師達はバックに西欧の軍事国家がついている自分達を弾圧し始めた日本政権の方針に驚愕し、当時の欧州最強国であったイスパニア(現スペイン)の国王フェリペ2世に無敵艦隊の出動を手紙で要請した程である。もっとも、その内容といえば'''「5万の兵力もあれば九州ぐらいは簡単に制圧できる」'''というあまりにも日本の国力をみくびり過ぎた杜撰な見積もり<ref>秀吉がバテレン追放令を出した当時、'''肝心の無敵艦隊は[[フランシス・ドレイク]]に壊滅させられた直後だった'''上に、当時の九州には朝鮮出兵の為に30万を超える兵力が集結していた為、5万程度の兵力では瞬殺されるのがオチである。ついでに言うと、当時の日本は'''50万丁以上の鉄砲を有する世界最強の軍事大国'''でもあった。</ref>であり、当時の宣教師達がいかに国王というものを軽視し、東洋諸国を舐めていたかが伺える。
:*近年の史料では、フェリペ2世は本気で無敵艦隊の派遣を検討していたらしい事が判明している。もっとも、実際にやろうとしたところで5万人の輸送コストだけで国家財政が潰れるのがオチだろうが(5万人の人間を船舶のみで輸送するには、現在でも莫大な費用が掛かる。当時のイスパニアの破綻寸前レベルの財政難の事を考えてもかなり無謀な計画である)。
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:*近年の史料では、フェリペ2世は本気で無敵艦隊の派遣を検討していたらしい事が判明している。もっとも、実際にやろうとしたところで5万人の輸送コストだけで国家財政が潰れるのがオチだろうが(5万人の人間を船舶のみで輸送するには、現在でも莫大な費用が掛かる。当時のイスパニアの破綻寸前レベルの財政難の事を考えてもかなり無謀な計画である。よしんば実現したとしても、当時の航海術や帆船では5万人もの人間が五体満足で日本まで辿り着く事はほぼ不可能だっただろう<ref>一例を挙げると、日露戦争の時にヨーロッパから遠征してきたバルチック艦隊は、日本に到達した頃には兵員が疲労困憊の極みとなっており、結果、日本海海戦でフルボッコにされてしまう。</ref>)。
    
;島原の乱
 
;島原の乱
 
:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、'''実際には藩主の暴政への不満が根本的な原因であり、キリシタンの反攻は二の次に過ぎなかった'''。
 
:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、'''実際には藩主の暴政への不満が根本的な原因であり、キリシタンの反攻は二の次に過ぎなかった'''。
:当時は古参の大名であっても落ち度があれば容赦無く改易する3代将軍家光の厳しい国政や、大名の反乱を防ぐための藩への強制的な出費政策に恐れ苦しむ藩が非常に多く、この時島原藩を治めていた松倉勝家はそれらへの対策として藩内の農民に過剰すぎる年貢の取り立てと残虐極まりない罰則を敷いて無理矢理収入を増やそうとしていた。『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こうした暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。
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:当時は古参の大名であっても落ち度があれば容赦無く改易する3代将軍家光の厳しい国政や、大名の反乱を防ぐための藩への強制的な出費政策(参勤交代の義務化が代表例)に恐れ苦しむ藩が非常に多く、この時島原藩を治めていた松倉勝家はそれらへの対策として藩内の農民に過剰すぎる年貢の取り立てと残虐極まりない罰則を敷いて無理矢理収入を増やそうとしていた。『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こうした暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。
 
:幕府の政策によって他藩が幕府の許可が下りない内は軍を出動させられなかった事などが追い風となり、当初は一揆軍側が優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくると次第に追い詰められていき、最終的に島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。<br>幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで対処しようとするも、総大将に任じられた板倉重昌には討伐軍を統率するだけの力量が無く、ひたすら総攻撃を続けるも攻城は全て失敗。遂には重昌も戦死するという最悪の結果を迎える(これは後述の援軍派遣決定を受けて責任を取らされる事を恐れた重昌が功を焦り、自ら最前線に出て指揮を執りながら総攻撃を仕掛けたため)。
 
:幕府の政策によって他藩が幕府の許可が下りない内は軍を出動させられなかった事などが追い風となり、当初は一揆軍側が優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくると次第に追い詰められていき、最終的に島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。<br>幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで対処しようとするも、総大将に任じられた板倉重昌には討伐軍を統率するだけの力量が無く、ひたすら総攻撃を続けるも攻城は全て失敗。遂には重昌も戦死するという最悪の結果を迎える(これは後述の援軍派遣決定を受けて責任を取らされる事を恐れた重昌が功を焦り、自ら最前線に出て指揮を執りながら総攻撃を仕掛けたため)。
 
:このような予想外の結果に驚愕した幕府は「知恵伊豆」の異名を持つ老中・松平信綱を総大将として派遣。援軍を得た討伐軍は12万を数えたという。<br>事態を重く見た信綱は緩急を付けた戦い方を心掛けて無理な攻撃を控えるようになり、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると兵糧攻めにして一揆軍の弱体化を計った。篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日(旧暦)、遂に総攻撃を開始、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。
 
:このような予想外の結果に驚愕した幕府は「知恵伊豆」の異名を持つ老中・松平信綱を総大将として派遣。援軍を得た討伐軍は12万を数えたという。<br>事態を重く見た信綱は緩急を付けた戦い方を心掛けて無理な攻撃を控えるようになり、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると兵糧攻めにして一揆軍の弱体化を計った。篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日(旧暦)、遂に総攻撃を開始、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。
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