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66 バイト追加 、 2020年12月1日 (火) 19:25
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***外黄城を攻め落とした際には軍民問わずに15歳以上の男子を皆殺しにしようとしたが、仇叔(きゅうしゅく)という13歳の子供に虐殺をしないことの利を説かれ、中止した逸話も残されている。
 
***外黄城を攻め落とした際には軍民問わずに15歳以上の男子を皆殺しにしようとしたが、仇叔(きゅうしゅく)という13歳の子供に虐殺をしないことの利を説かれ、中止した逸話も残されている。
 
***秦を滅ぼした後の分封では、功績を上げた人間よりも、項羽と仲がいい人間を優遇した。露骨なまでの依怙贔屓ぶりが、楚漢戦争のきっかけになった。
 
***秦を滅ぼした後の分封では、功績を上げた人間よりも、項羽と仲がいい人間を優遇した。露骨なまでの依怙贔屓ぶりが、楚漢戦争のきっかけになった。
***秦を滅ぼして事実上中華の王になったにも関わらず、当時もっとも豊かな土地だった関中(旧秦領)の王にはならず、祖国の楚王となった。関中の王にならない理由を諫議大夫(主の政策に誤りがあると判断した場合、その方針を諫めたり、忠告する役職)の韓生に問われると、項羽は「富貴を得て、故郷に帰らないのは、夜中に一張羅を着て歩くのと同じだ。誰もみてくれない」と語った。韓生は退出した後に「人は『'''楚人は猿が冠を被っているのと同じだ(楚人沐猴而冠:そじんぼっこうじかん)'''』というが、まさにその通りだ」とうそぶいたので、項羽は怒って韓生を釜ゆでにしてしまった。楚漢戦争が始まると関中は真っ先に劉邦の領土となった。劉邦が項羽に勝てたのもチート級の逸材が揃っていた事に加えて、関中からの補給が滞りなく行われたことも理由に上げられる。ちなみに「楚人沐猴而冠」は「'''外見は冠をかぶって立派に見えるけど、実際やっていることは猿並みの愚か者'''」の意で、現在の中国では「沐猴而冠」という四字成語の語源となっており、意味は「外見だけを着飾って中身がない者」もしくは「悪勢に加担し、権勢を得る者」となる。
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***秦を滅ぼして事実上中華の王になったにも関わらず、当時もっとも豊かな土地だった関中(旧秦領)の王にはならず、祖国の楚王となった。関中の王にならない理由を諫議大夫(主の政策に誤りがあると判断した場合、その方針を諫めたり、忠告する役職)の韓生に問われると、項羽は「富貴を得て、故郷に帰らないのは、夜中に一張羅を着て歩くのと同じだ。誰もみてくれない」と語った。韓生は退出した後に「人は『'''楚人は猿が冠を被っているのと同じだ(楚人沐猴而冠:そじんぼっこうじかん)'''』というが、まさにその通りだ」とうそぶいたので、項羽は怒って韓生を釜ゆでにしてしまった。楚漢戦争が始まると関中は真っ先に劉邦の領土となった。劉邦が項羽に勝てたのもチート級の逸材が揃っていた事に加えて、関中からの補給が滞りなく行われたことも理由に上げられる。ちなみに「楚人沐猴而冠」は「'''楚人は外見は冠をかぶって立派に見えるけど、実際やっていることは猿並みの愚か者'''」の意で、楚人(項羽)を猿として誹る言葉となる。現在の中国では「沐猴而冠」という四字成語の語源となっており、意味は「外見だけを着飾って中身がない者」もしくは「悪勢に加担し、権勢を得る者」となる。
 
****上記の韓生を処刑した件は、韓生にも非はあるが、主を諫める立場の者が容赦なく処刑されるという事態を前に、項羽へ意見する者がほぼいなくなってしまい、悪い意味での独裁体制が確立してしまったともいえる。唯一意見する事が出来たのは軍師であり、最も信頼を寄せていた范増くらいだが、その意見の多くもあまり聞き入れられなかったといわれている(漢設立後に劉邦は項羽の敗因に関して「'''自分は諸将を使いこなせたが、項羽は范増一人すら使いこなせなかったから'''」と述べたとされている)。
 
****上記の韓生を処刑した件は、韓生にも非はあるが、主を諫める立場の者が容赦なく処刑されるという事態を前に、項羽へ意見する者がほぼいなくなってしまい、悪い意味での独裁体制が確立してしまったともいえる。唯一意見する事が出来たのは軍師であり、最も信頼を寄せていた范増くらいだが、その意見の多くもあまり聞き入れられなかったといわれている(漢設立後に劉邦は項羽の敗因に関して「'''自分は諸将を使いこなせたが、項羽は范増一人すら使いこなせなかったから'''」と述べたとされている)。
 
*苛烈なエピソードは多く、秦の首都「咸陽」に進軍した際にはその進路上の都市を落とすと、軍民も女子供も問わずに皆殺しにしていたが、結果的にこの方法は「'''項羽軍には降伏しても皆殺しにされてしまう'''」として進退窮まった敵軍の猛烈な抵抗に合い、劉邦に咸陽制圧の先を越されてしまった。他にも秦の降将章邯と共に項羽に従った秦兵が反乱を起こそうとした際には20万人に夜襲を掛けて、丸ごと生き埋めにしたりするなど容赦がなく、自軍の軍師で亜父(父に次ぐ者)と呼んで信頼した范増にすら「他人にひどいことをすることに忍びない(我慢がない)」を評されている。
 
*苛烈なエピソードは多く、秦の首都「咸陽」に進軍した際にはその進路上の都市を落とすと、軍民も女子供も問わずに皆殺しにしていたが、結果的にこの方法は「'''項羽軍には降伏しても皆殺しにされてしまう'''」として進退窮まった敵軍の猛烈な抵抗に合い、劉邦に咸陽制圧の先を越されてしまった。他にも秦の降将章邯と共に項羽に従った秦兵が反乱を起こそうとした際には20万人に夜襲を掛けて、丸ごと生き埋めにしたりするなど容赦がなく、自軍の軍師で亜父(父に次ぐ者)と呼んで信頼した范増にすら「他人にひどいことをすることに忍びない(我慢がない)」を評されている。
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